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2011年 01月 06日
今朝5時45分、我が家の外気温は、17.3℃。
今日の天気、晴れ、雲多し。 農業気象観測所の今朝の最低気温は、16.0℃。昨日の最高気温は、29.6℃。 カラカラ陽気で、今日も、庭の草木に水遣り。 【「啓蟄(けいちつ)」】 「啓蟄」とは、「冬ごもりしていた虫が、春の暖かさを感じて、外に這い出てくるころ」という意味で、二十四節気のひとつ。3月のはじめころのことだそうである。 実は、当地の今年の寒期は、比較的暖かい「暖冬気味」で、それも、もうそろそろ終りのようである。 一昨日には、グッピーの池に「ガマ」が産卵、花壇のバラに、「毛虫」の姿が見られるようになり、室内外を問わず、何種類かの「アリ」もチョコマカ動き出し、「チーク」の幹にシェルターを作っている「シロアリ」も活動が活発になってきた。「蚊」にいたっては、今年は、寒期さなかでも、寒さにおびえるどころか、元気そのもので、昼夜問わずに襲い掛かってきていたが、ここへ来てさらに活発になってきた。 熱帯の北タイには「啓蟄」などという言葉は相応しくないのかもしれないが、いっとき静かにしていてくれていた「虫」どもが、動き出す季節というのであれば、今頃が「啓蟄」ということかもしれない。 「立春」頃までは、まだ寒さが戻ってくることもあるかもしれないが、どうやら、チェンライの「冬」は、終わりに近づいてきたようである。 【「モッカラー、クンパー、ミーナー、メーサー、・・・」】 「モッカラー(1月)、クンパー(2月)、ミーナー(3月)、メーサー(4月)、・・・」というのは、タイ語での月の呼び名の省略形である。 外来語であろうということは、すぐに想像できたが、何か「星占い」の星座名か何かがもとになっている呼び名のような気がしていた。 「モッカラー、クンパー、ミーナー、メーサー、・・・」というのは、サンスクリットの1、2、3、4、・・・、そのまんまであるということを知ったのは、最近のことである。 「サンスクリット」や「パーリ語」の陰暦の月の呼び名は、また別にあって「マカーブチャー(万仏節)」の「マカー(3月)」とか、「ウィサカブチャー(仏誕節)」の「ウィサカ(6月)」などというのが、その陰暦の月の名前である。 太陽暦の月名を「モッカラー、クンパー、ミーナー、メーサー・・・」などと、呼ぶようになったとはいえ、もとがサンスクリット語であるため、北タイの庶民にとっては、なじみのない呼び方だったようで、今でも、記憶できていない人は多く、外国人の小生のところに聞きに来るものさえいる。大人ばかりか中学生でも、半数以上が正しく月の名を読み書きできないようである。 北タイの暦は、北タイ独自の陰暦(多分、これももとは、インドか中国から入ってきたものだろうとは思うが、)で、つきの呼び名は単純に「1月(ドゥアン・アイ)、2月(ドゥアン・ジー)、3月(ドゥアン・サーム)、4月(ドゥアン・シー)、・・・」なのだが、「1」と「2」は、現在標準タイ語として使われている、「ヌン」、「ソーン」ではなく、「1」は、「アイ」で「2」は「ジー」である。「3」以下は、標準タイ語と変らない。 ここから、話が、ちょっとばかり飛躍するのだが、「アイ」は、「目上の男性」に対する代名詞として使われ、普通は、「兄(あに)」の意味であるが、もしかすると、この「兄」と「アイ」とは、出自を同じくする単語なのかもしれないと思ったりしている。 「ジー」だが、これは、明かに「次(じ)」であろうと思われる。 いずれにしても、「1」、「2」を「アイ」、「ジー」と数えるのは、タイ系言語の「古形」のようで、他にも、「ラームカムヘン王の石碑」などにも見られるように、推論の根拠はいろいろあるのだが、北タイ人は、現在も「タイ古語」を使っている民族であると言ってもいいような気がする。「タイ標準語」といわれることもある現在のタイ語だが、タイ民族が、流れ流れて中部タイの地に住み着いた後に、「モンクメール」など様々な文化の中で変容した結果、現在の形になったもののようである。「ルーツ」は北にあるのである。 こんなたわごと、どこの論文にも見たことはない、「下司の勘ぐり」であるが。 余談だが、「1」、「2」は、ともかくとして、「3」以下の数字の数え方から推測するに、日本の「1、2、3・・・」と同根のような気がする。タイの歴史を少しさかのぼると、「インド文化」のプレゼンスの方が、「中国文化」よりも多いように見えるのだが、「数の数え方」など基本的なところでは、やはり、江南など中国の中南部と共通なものがあるように思われる。 もともとタイ系民族というのは、どこからやってきたのか、定説というのはないのだそうだが、やはり、昔言われていた「アルタイ」説には否定しがたいものがあるような気がする。「殷」や「周」などの「漢民族」の先祖が、現在の中国に入ってくる前の先遣隊だった可能性もありそうである。「青銅器」や「鉄器」などの先進文化を武器にして、後(うしろ)からやってきた、「漢民族」に追い立てられ追い立てられしながら、辺境の地に流れてきた結果が現在の姿なのではないだろうか。「インド文化」の洗礼は、その後になって受けたものにちがいない。
by payarn
| 2011-01-06 20:40
| 日記
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