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Since May 26 2007 |
2008年 03月 29日
【梶さんの死因などについて】
「梶さん」は、タイでは今や有名人のようである。 梶さんの経営する会社「富士ファーム」 は、「 ฟูจิฟาร์ม 」(フジファーム) でググると、実に14500件もがヒットする。 そのうちのいくつかの記事は、いずれ翻訳して公開しようかと思っているが、タイの農林省管轄の米の種苗改良研究施設で開発された「ジャポニカ米(日本米)」 の本格的な実用栽培が始められたのは、梶さん関連の農家が最初のようである。 昔から、米が重要な外貨獲得商品だったタイでは、官民上げて注目しているようで、近い将来、1万トンにも及ぶ「日本米」が、「梶農場」で輸出用に作付けされるであろうと期待されている。 また、梶さんの名前「 ยาโซจิ คาจิ 」(ヤソジ カジ)で検索しても随分多くの記事が見つかるようである。 梶さんの死亡に関しても、少々事件性を示唆した記事ではあるが、地元の一部の新聞でも報道されたようで、『 タイの地元新聞を読む 』(3月29日記事) には以下のように、その翻訳と思われる記事が掲載されている。 ”チェンラーイで会社経営の邦人男性が心臓発作で死亡 28日、チェンラーイ県県内の病院で、仕事中に発作を引き起こし搬送されていた同県メーヂャン郡内で農業関連の会社を経営する55歳の日本人男性が死亡した。 男性が日頃から激務続きだったこと、また体に争った跡が無いことから、暑季への季節の変わり目に激務が続いた事による過労と持病による心臓発作による死亡とみられるが、警察側は、念のために司法解剖を行った上で死因を特定したいとしている。” 梶さんの死の一報が入ったのは、梶さんと昼食をともにした数時間後のことで、あまりにも突然の訃報のため、正直、一瞬は「事件」が頭をよぎったが、その後の状況など総合的に判断すると、事件の可能性は皆無と思われる。 梶さんは、生前、プライベートなことを公けにされることを極端に嫌っていた。 他人に触れて欲しくないさまざまな人生を抱えて生きているのは、梶さんに限らず誰しも同じことだと思うが、成功しかかっている事業にマイナスになるのを恐れていたことも確かなようである。 しかしながら、すでにこの世から去っていってしまった梶さんについては、上記記事にもあるように、さまざまな誤解や意識的な誤情報が流布しないとも限らないし、ご遺族や、従業員のみなさんの今後の事業活動の障害にならないとも限らないので、この際、知っている限りの情報を、公開することにした。 梶さんを個人的に知ってから、まだ2年ほどにしかならないし、親しいお付合いということであれば、今年になってからのことである。 当地での梶さんとのお付き合いが、10年以上になる方も、何人かはおられるようだが、社交べな「肥後もっこす」、親しいお付き合いが続いている日本人は、あまり多くはなさそうである。 梶さんは、当地での日本米栽培の大先輩・谷口巳三郎氏と同じ熊本県の出身で、1950年生まれ。享年57才。 都内の私大を卒業後、会社勤めをしていたが、機会があって、1980年代半ばころ、北タイの日本米栽培を手がけているSJ社の業務改善のためのコンサルタントとして派遣され、チェンライへやってきた。 その後、日本の米の輸入自由化を目前にして、同社との係わり合いのあった日本人たちと、日本米栽培を業とする会社を設立。SJ社で知り合った同僚のタイ人の才媛と結婚。現在の奥さん、ランパンさんである。 この会社は、軌道に乗ることもなく、経営方針の意見対立などが原因で分裂。 梶さんとランパンさんの苦労が始まる。 梶さんは、もともとは、農業の実践経験は全くない方で、資金的にも、技術的にも、血反吐を吐くような毎日だったはずである。 そんな苦労の甲斐があって、なんとか日本米が出荷でき、事業としての目途がたちはじめたのは、今世紀に入ったころからのようである。 我が家からさほど遠くはない、メチャンのパハー村で、日本米を手に入れることが出来るのを知ったのは、数年前のことである。 このころの「富士農園」 の日本米は、たまには、なんとか「日本米」 として、通用することはあったものの、正直言ってわざわざ買いに行くほど魅力はなかった。 価格や食味などを勘案すると、地元の山岳民族が栽培している「中粒種・ジャヴァニカ」 で十分「日本米」が堪能できるといった人がいた。梶さんのところの日本米は、格安ではあったが、それでもこの「ジャヴァニカ米」の2倍近くの値段だった。 そんな「日本米」だったが、日本から引越しの際に持ってきた「圧力鍋」を使って炊飯したところ、「コシヒカリ」の自然乾燥米とも見まごうほどの「ご飯」 にありつけた。一消費者としてだが、歓喜の瞬間だった。 炊き上がった「圧力釜」 の蓋を開けると、米粒はいっせいに立っている。ぷーんと香る日本のお米の香り、炊き方によっては十分に通用する「ジャポシカ」 が、チェンライでも収穫できることがわかった。 ただ、「圧力釜」 を使っての炊飯は、コツがいり、いつも同じようにうまくいくとは限らないため、食味は落ちても、通常の日本の炊飯器を利用することの方が多かった。 このころから、シンガポールなど、海外の日本食レストランなどからの注文も入り始め、タイの農業省などでも、梶農園を注目するようになり始めていた。それには、梶さん夫婦の二人三脚の努力の成果がみえはじめ、「フジファーム」は、事業としての目途が立ち始めていた。 銀行などからの融資も受けられることになり、日本米栽培に必要な重機や精米施設の充実のための投資が行われ、「富士農園」 の日本米は、熱帯産の日本米とも思えない画期的な美味しさの「日本米」に進化していった。 あとでわかったことだが、このころから、タイで改良された「あきたこまち」のタイバージョンの種籾が手に入るようになっていた。あえていえば「チェンライコマチ」である。 この品種は、大変なすぐれもので、従来、北タイで栽培されてきた「コシヒカリ」、「ササニシキ」、「あきたこまち」などとくらべて、食味が大幅に改善されたこともあるが、何といっても、「感温性」「感光性」など、北タイの気候に実によくマッチしていて、栽培しやすく、収量も、多収穫米で名高い地元の「インディカ」に引けをとらないほどのた収穫が見込めることである。 今では、地元の稲作農家からも、「フジファーム」との契約栽培に参加希望者が引く手あまたの盛況ぶりである。 近い将来の事業規模の拡大も約束されているようなものである。 昨秋には、タイのビジネス・ニュース紙「クルンテープ・トゥラキット」などからの取材もあり、タイの日経のような「プーチャッカン紙」 などにもとり上げられたらしい。 ところが、 いいことばかりは続かないわけで、昨年10月25日、梶さんは、「脳梗塞」を発症。 数日間生死をさまよったあと、奇跡的に回復したものの、梶さんは「言葉」を失ってしまった。「失語症」というのだそうである。 相手の言葉を聴いて理解することと、書いてある文章を読んで理解することは、いくばくもしないうちに可能になり、これだけであれば、「日本語能力」は、完全回復したといってもいいほどである。 ところが、発語能力は、3歳児にも劣るほどで、とりわけカタカナ・ひらがなの発音は、零点に近かった。 漢字とローマ字(英語)の表現は、次第に回復し、十分とは行かないまでも、なんとか「筆談」に使えるまでに回復してきた。 言葉の発声については、全く不可能ということはないのだが、表現できるボキャブラリーは、実用には全く不十分なものだった。 こんなころ、何気なく「日本米」を購いに「富士農園」 を訪れ、梶さんのこのような状況を知って、いくばくかのお手伝いをする約束をした。1月の終わりか、2月の初めころのことだったと記憶している。 その後、必要があれば、梶さんの方から我が家を訪ねてくることもあったし、こちらからも暇を見て出かけるようにしていた。 「あいうえお」 の発音練習用のソフトを用意して差し上げたり、日本の会社から「日本米」 の買い付けに来る客のアテンドをしたり、あれこれお手伝いをしてあげた。 「脳梗塞」 発症後、車の運転は禁止されていたのが、このころから自分で運転するようになり、いくらか慣れてきたのか、ひとりで外出することも多くなった。 えっ?、本当に大丈夫なの?という気持ちだったが、言葉以外は、発病前にもどったようで、奥さんはじめ、はたでは、とめられなかったようである。もっとも、他人に言われて、やめるような梶さんではなかったが・・・。 3月24日、いつものように「日本米」を買いに立ち寄った。 梶さんの姿が見えない。しめしめである。梶さんに見つかると、代金を受け取ってもらえなく、施しを受けているようで気詰まりに思っていた。 ところが、支配人の話で、梶さんが、15日に交通事故に遭い、ICUに入っていたことがわかり、なんともいたたまれない気分になった。それ見たことかである。 15日に、愛用のピックアップをひとりで運転して、隣県の谷口先生を訪ねた帰り、チェンライ県の県境のパーン郡の交差点で、大型トラックと衝突したのだそうだ。 支配人から、そのあたりのいきさつや怪我の程度などきいたが、ICUを含めて数日の入院後、医者の止めるのも聞かずに自ら退院し、自宅療養中とのことだが、梶さんのことだから、一両日中に工場へ出てくるにちがいないとの事だった。 パソコンにファイルしてある事故車の写真を見せてもらったが、命があるのが不思議と思えるほどの、日本であれば「全損事故」 である。 梶さんが嫌がるかもしれないとは思ったが、とにかく助かってよかったという気分もあって、ブログに実名で事故のことを書き込んだ。 支配人の予想通り、翌日出社してきた梶さんが、この記事を目ざとく見つけて、呼びつけられた。 こんなことを書かれては困るではないかということだった。 気を使いながら書いたつもりだったが、梶さんにしてみれば、意図的に流布されるのは困るということのようだった。 仰せの通りと、帰宅して即刻、24日のその記事の部分を削除した。匿名にして書き変えるほどの内容でもなかった。 27日、朝、9時ころのことだった。 従業員のひとりから我が家に電話が入った。 梶さんが、「バンドゥー」 で待っているので、お付き合いして欲しいとのこと。今から迎えに来るとのこと。 迎えの車の中で、梶さんは「バンドゥー」 の温泉に入っていて、ご一緒したいということらしかったが、そんな「はだかの付き合い」をするほどの親しい関係でもないのに、変なことを言う人だと思った。あとになって思うと、すでに自分の体調に異常を感じていたのかもしれなかった。 10時少し回った時間に「温泉」についた。 温泉仕度もしていなかったので、受付で「貸しタオル」を借りて、半開きになっている浴室に入ると、すでに湯船のお湯の栓は抜かれていて、浴槽にはお湯はなかったが、裸でからだを拭いて、怪我で不自由な手で着替えを始めたところだった。 「はだかのお付き合い」 には、遅刻してしまった。 ゆっくり温まったのだろう、顔色は、ほんのり桜色で、わずかに額は汗ばんでいた。 満足そうな、穏やかな顔つきだった。 温泉の建屋を離れるころ、痛む腕や肋骨あたりが、大変気持ちがよく、これから、毎日朝晩ここで「温泉治療」をするのだといっていた。 「肥後」 は、「阿蘇山」 のくに、温泉のくにである。そんなことも思い出したのかもしれない。 「温泉」 をあとにして、少し早いが、バンドゥーの「日本料理店」 で昼食をとるつもりで立ち寄ったが、あいにくシャッターが下りていた。この店も、梶さんのお米を仕入れている客だそうである。 しかたがないので、メチャンのロータスで、「握り寿司」を調達することに。 スーパー内などで、パック入りの「にぎり」を扱っている「PTL(パン・ターレー)」という冷凍鮮魚の会社は、梶さんのところの大口の客である。 事故後、数日前までは、食事は消化のいい「パン食」しかダメだったらしいが、もう、「握り寿司」 も、食べられるようになったようである。 工場に戻りついたのは、11時半過ぎだった。 お茶を入れてもらい、パソコンの前で、あれこれWEBページを見ながら、二人で寿司をほおばった。話にならぬ会話をしながら、食べ終わったのは12時過ぎだった。 食べ終わると、今日は、せっかく来てもらったのに「温泉」に入ってもらえなくて、すまなかったというような身振りで、帰りを促すしぐさをした。 昼の休憩時間中だったが、従業員にお願いして送ってもらって帰宅した。家に帰りついたのは、12時半ころのことだった。 それから、急報が入った5時ころまで、何をしていたのか記憶にない 一方、梶さんの方は、小生が辞して間もなく、2時近くに、メチャンの銀行に売り上げの入金確認に出かけたらしいが、3時ころ、工場に戻って、車を降りるや否や、体調不良を訴え、見る見る顔面蒼白になり、チアノーゼがはじまったらしい。 大急ぎで、最も近いメチャン病院に連絡し、救急車で運ばれていったが、心臓らしいということで、メチャン病院ではどうすることも出来ず、チェンライの「シーブリン病院」に入ったのが、4時すぎだったようである。 ICUに入れられ緊急治療の結果、一時蘇生し、医師もひと安心しかかったのだそうだが、実は「ぬか喜び」で、間もなく息を引き取ったようである。 5時、少しまわったころ、我が家に一報が入った。 つい先ほどまで、元気だった人が、逝っちゃったと聞かされ、ショックであるとともに、生き物の命の即物的な儚さ、脆さを実感させられた。 取るものもとりあえず、井上さんにご一緒願って、梶さんの亡骸が安置されている病院に着いたのが、7時ころだった。 死因を確認するために、「検死解剖」 が必要だが、明日になるということで、引き上げてきた。 28日、予定では、「司法解剖」 は、昼ごろには終わり、午後には亡骸を引き取れるはずだったが、必要な書類の処理が随分と煩雑で、梶さんが、2日ぶりで家に帰り着いたのは、夜の8時を回ったころになってしまった。 外国人ということで、領事館の承認書類がないと(領事館では、病院の診断書がないと、承認書を発行しない)、亡骸を病院の外に運び出せないことなども、その理由だが、民間病院の書類では、領事館は許可しないのだそうである。書類は、市役所、病院、領事館をファックスなどで行ったりきたりさせられた。 厚生省管轄のチェンライ中央病院に亡骸を移動し、そこで「検死」作業をしたことなども、時間を要した理由らしい。 肝心の「死因」 だが、冠動脈の小さな破裂による「虚血性心不全」 ということらしいが、死に至るまでのさまざまなことや症状などからして、もっともらしい死因のように思われるが、検死書類を見たわけではないので、書類上どのように表現されているのかはわからない。医師は、通俗的に、”心臓に小さな穴(フアチャイ・フア)があいていた”と説明したらしい。 「脳梗塞」 の再発予防のための「降圧剤」を常用していたし、事故による内出血の止血のための薬も投与されたにちがいない。交通事故からは、時間もたっているし、薬による「血栓」が原因の可能性があるが、1,2週間退院を我慢すれば、なんとかなったかもしれない。 とにかく、事故の程度からしても、退院は早すぎた。さまざまなことを振り返ってみて、極端な言い方かもしれないが、「自殺」 に近い「死」 ということも出来ないことはない。 「握り寿司」 をつまみながら、出来るだけ早い機会に、CT検査など、再度精密検査してもらうように、くどいほど言ってやったが、今にしてみれば「後の祭り」。引き止めることも出来ない「旅立ち」である。 心に受けた「傷あと」は、癒しようのないほど大きく、「ご冥福をお祈りする」とか、「合掌」などと記すつもり毛頭ない。 梶さんの亡骸にも、言ってやったが、いまでも、”このバカヤロウが”といいたい。 この1ヶ月あまりの間に数回、我が家にも顔を見せ、話題に事欠かない梶さん、彼の顔や、やや猫背で、細身で長身の彼が早足で歩く姿は、みんなが覚えている。娘のケイも、月曜日の火葬式には、「氷や」を閉めても参列するつもりになっているようである。 つらく、悲しいお別れである。 それにしても、冒頭引用した地元新聞の記事、27日が28日になっているとはいえ、迅速な対応である。外国人ということもあって、のちのち問題にされないように、官憲も、そつのない対応に勤めているようである。 遺族が、チェンライ中央病院の霊安室の受付で、立ち話の事情聴取を受けたのは、28日のことで、覗き込んで見た係官のメモには55才と書かれていた。 30代半ばの、細身で、一見まじめそうな警官だった。
by payarn
| 2008-03-29 19:52
| 日記
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