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Since May 26 2007 |
2007年 03月 25日
今日は、郷里(遠州)にある「高天神」の例祭(のはず)である。
”ふるさとは遠きありて想うもの”といわれているが、半世紀も昔のさまざまな思い出がよみがえってくる。 『高天神を制するものが遠州を制する』といわれた戦国時代の山城・高天神城は、今川・武田・徳川とその争奪合戦の場となったところで、数々の武勲や悲劇が伝えられている。 今では、ちょっとした観光名所くらいにはなっているのかもしれないが、当時は、3月25日の例祭位にしか訪れる人はいなかったと思われる。 小中学校時代は、絵画が得意ということになっていたらしく、よそからおいでになられた高名な(?)な画家先生(お名前は覚えていない)とともに、絵画部(?)全員が、この山の写生をしたことがあった。 水墨画に着色した、和洋折衷の絵で有名になられた方だったが、セザンヌが終生画材にした「サント・ビクトワール山」に良く似た山であるといっておられたのが記憶に残っている。 社会に出てからの同窓会で、級友に、今でも描いているんだろうねと聞かれたことがあったが、才能のないのはわかっていて、中学校卒業以来、絵筆など持ったことがない。 小学校時代以来、小生の描いた絵は、当時の審査員たちには、不本意にも好評で、絵筆や絵の具などはコンクールの副賞でもらったものでまかなっていて、買ったことはほとんどなかった。他人に自慢できる自信作などというのは、ただのひとつもなかった。 のびのびとして、画用紙の外の空間まで利用している石川晴美君の絵など、いつも羨ましく思っていた。今頃、彼は、何しているのだろうか。ずっと田舎に残っていて、都会生活などしていない彼、元気にしているのだろうか。 この山のふもとに近いところには、長い間「片思い」だった女性の実家がある。 成人してから、意を決してお宅を訪ねたときに、すでに、左手の薬指には、エンゲージ・リングがはめられていて、落胆したことがあった。 片思いとはいえ、中学時代の「憧れの君」で、彼女に嫌われないようにというのが、一年発起して勉学に勤めるようになったきっかけである。劣等生ではないとは思うが、性格のひねくれた悪がきで、学校の成績は、上から三分の一にやっと入る程度だったが、それ以来、急速に成績だけは良くなって、トップ争いの集団に入れてもらえるようになった。 この高天神城は、最後には徳川のものとなったのだが、幕藩体制の世の中は安定し、城としては再建されることはなかった。以後、高天神城務めの武士たちは、お役ごめんということになり、高天神のある土方(ひじかた)村で百姓として暮らすことになったものが多いらしい。 そのようなわけで、この村には、全国的にも珍しい由緒ある苗字の家が多く、百姓といっても、苗字帯刀を許された、士分としての百姓が多かったにちがいない。 縣(あがた)・青野・杉森・鳥居・春田・松下・溝口・森下・鷲山(わしやま)・・・、これらの苗字は、その後長じてからも、そうたびたびは、お目にかからなかった苗字である。 これらの、士分だったと思われる同級生の親たちの多くが教員を務めていて、水呑み百姓のせがれとしては、羨ましい限りであった。 日本の女子医学の草分け、東京女子医大の創立者もこの村の出身だそうである。 その頃から、権威には阿らず、すねることで自己存在を確保してきた、ひねくれ人生がスタートしていたわけである。 中学時代の担任だった故横山先生からは、”スズキは、腹の中に変な虫を抱え込んでいるぞ”と忠告されたことがあった。見抜かれたかと、わかる人にはわかるものだと感心したが、その後も変わることはなかった。 横山敏先生からは、”少し難しいかもしれないが、読んでみろ”と、『歯車の話(成瀬政夫著 牧書店 1955)』という、”新書版の本を貸していただき、何回も何回も読みかえしたことを記憶している。この本は、当時病気で学校を休んでいた嘉延君(現知事)のために選ばれた本で、小生はその「お下がり」ではあったが、秀才・石川君と同列に扱われたような気がして悪い気はしなかった。 1枚歯や2枚歯の歯車のあることをはじめて知ったり、ドイツを訪れた日本の技術者が、歯車の鋼(はがね)の切りくずを、爪の間につけて盗んでくる話など、技術開発ということがどんなことなのか、なんとなくわかったような気がした。Σ(シグマ)記号に初めて出会ったのも、この本である。 中学時代に、この人にはかなわないと思って敬意を表していた教師は、ほとんどいなかったが、一目おいていた、数少ない教師の一人である数学教師の横山先生はわれわれが卒業して間なしに、県東部の技術専門学校に栄転されたが、いくばくもしないうちに、ストレスが原因だったのか癌をわずらって他界されたということをあとになって知った。 みんなみんな、甘くてほろ苦い遠い記憶のなかのことである。 『高天神城』については、インターネットの世界にも、数々の情報が流布しているようで、詳しい情報など知りたい方は、Googleなどでの検索をお勧めします。 (下に続く)
by payarn
| 2007-03-25 17:00
| 日記
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