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ランナー・タイこんなところに住んでます どこ、どんなとこ? わたしの家族 我が家のカレンダー 【 最近の追加・更新 】 写真集 『 ブナの森 』 (7/19) 検索
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2011年 07月 04日
今朝5時35分、我が家の外気温は、23.4℃。 天気、曇り、雨あがり。
農業気象観測所の今朝の最低気温は、23.1℃。昨日の最高気温は、28.1℃。 午前中は、降ったりやんだりだったが、午後になって久しぶりの「ピーカン」。肌を突き刺す、痛いほどの陽射しだった。 【生保の住所変更】 当初の予定では、娘のケイは狂、チェンマイに戻ることになっていたが、居心地がいいのか、まだ2、3日は帰らないことにしたらしい。 今日は、親子3人、「水入らず」で、娘のケイの「生命保険」の住所変更にメサイへ出かた。 娘が加入している「生保」は、娘が小学校低学年だったころの加入したものだが、住所が実父・タウィの家のままになっていた。そのため、保険料の払い込み通知などは義弟の家に配達され、たまには、紛失するなどということもあった。 そんなこともあったのだが、このところかみさんと義弟は、姉でも弟でもないという「戦争状態」で、いざというときのために、もうじき満期を迎える「生保」の住所変更をしておくことになった。 義弟の身分証と住民票のコピーは、朝のうちに娘にもらいに行かせのだが、実際の手続きでは、不要だったらしい。満20才を過ぎれば、加入者本人の書類だけで変更できるということのようだった。 用事を済ませた後、娘の要望で、「ピヤポン市場」へ。時間が時間で、めぼしいものもなかったのだが、それでも、何かかんか買ったようではある。 【「台湾餃子の店」、移転?】 買い物を済ませて、少し早めだったが、これまた娘の要望で。「台湾餃子の店」へ。 なんとシャッターが閉まっていて、移転先通知の貼り紙が貼られていた。同じビルにある3、4軒の店が、みんな同じようにシャッターが閉まって、貼り紙が貼られていたのを見ると、家主の事情で、「台湾餃子の店」も追い出されることになったにちがいない。 パラパラ雨が降り出したなか、貼り紙にあった移転先(メサイ郡役所近くの「191交番」の向かいあたり)に行ってみた。かみさんと娘が移転先通知の貼り紙を見ていたのだが、記憶が曖昧で、本降りになりはじめたなか、交番の近くをウロウロしながら、探したが見つからない。しかたなしに交番に聞きに行かせたが、お巡りさんも心当たりがないとのこと。 お前たちの記憶が曖昧なのがけしからんと、再度「台湾餃子の店」のあった場所へ戻って、貼り紙を見に行く。 たしかに、「191交番」の前。とはいえ電話も書いてないので電話で確認することも出来ない。 移転先まで戻って、念入りに確認し、貼り紙にあった「店」のあたりで、聞いてみたが、それらしい「餃子の店」はないとのこと。ただ、間口は狭いが、黄色いシャッターのが閉まっている「空き店舗」らしいものがあった。もしかすると、これから開店準備をして、その黄色いシャッターのところで開店するのかもしれないと曰うことで、「餃子」は諦めることにした。 行ったり来たり、あちこち探して歩いている間に、昼も過ぎてしまい、2、3軒隣りの「パッタイ屋」には行った。傘ももたずに、本降りの中ウロウロしたので、3人とも濡れてしまった。かみさんは、「タイ風焼き飯」、小生と娘は、「海鮮カレー炒め」の「ぶっ掛け飯」。また食べたいとは思わない味だった。 帰りに猫用の魚を求めて、「パヤーン市場」、「フエカイ市場」、「フエイ・ナム・クム市場」とほっつき歩いたが、格安の魚は、ほとんど手に入らなかった。雨期真っ只中であちこち増水しているせいか、市場に出ている魚は少なめのようである。 【「ドイトゥン」、アウトレット】 娘が、「マカデミア・ナッツ」が欲しいというので、メサイの帰りに「ドイトゥン」の登り口のバス・ターミナルに寄ってみた。みやげ物屋があるので聞いてみたが、山の上でしか売っていないと言われたが、念のため、少し先にある「ドイトゥン・プロジェクト」の「工芸センター」の「OUTLET]に寄ってみた。 ちょっとわかりにくいところだが、奥まったところに売店があって、手に入れることができた。 店に出ている商品のほとんどは、売店の隣りにある「陶芸センター」で製作された陶器だが、値段も日本並みだが、素人目にはなかなか上等な陶器が列べられていた。技術的にも、大分進歩したようである。当初の予定価格の1/2、1/3でバーゲンされているものもあって、なかなかお買い得だった。壊れ物ということもあって、我が家のような「ガサツな」家には似合わないものばかりで、格安のコーヒー・カップだけ買って帰った。「ソイトゥン」の焼き物も、「民芸品」レベルにはなってきたようである。 「民芸焼き物」に興味がある人は、のぞいてみるのもいいかもしれない。 【選挙結果など】 「下院選挙」は、投票締め切り直後の予想結果ほどの、「タイ貢献党」の「地すべり勝利」にはならなかったが、260議席以上の安定過半数を獲得したようである。 これで、タイの「政情」が安定するというわけではなく、今回もまた「解党」の企てなどもあるようで、むしろ波乱含みなわけだが、その辺の事情などを含めて、「日本語情報サイト@タイランド」 に関連記事が掲載されていたので、転載しておく。(リンクしておくだけでいいようなものだが、もとの記事はいずれ削除されて見られなくなる可能性があるので、だいぶ長くなるが、写真などは割愛し、少し手を加えて転載しておくことにした。) 「タクシン氏」は、タイ在住の日本人の間では、あまり評判がよくないようだが、日ごろから、「タクシン党」には、「労働者・農民党」的な要素もあると思っているので、転載したこの記事については、おおむね「YES」ではないかと思っている。 タイ下院選 タクシン派過半数、特権階級支配に「NO」 2011/7/ 4 (04:05) 【タイ】3日に投開票されたタイ下院選は、タクシン元首相派の野党プアタイ(タイのため)党が過半数を制し、中小政党を取り込み連立政権を樹立する見通しとなった。タイでは2006年の軍事クーデターと2008年の司法判断で、選挙で選ばれたタクシン派政権が2度覆された。タイ国民はこうした経験から、国の実権を握り、民意を軽視する反タクシン派特権階級への反発を強めており、今回の選挙結果は国民が特権階級に「NO」を突きつけたといえそうだ。ただ、特権階級が選挙結果を受け入れるかどうかは不透明で、新政権はプアタイの解党を求める裁判や軍事クーデターに怯えながら、特権階級との妥協点を探すことになりそうだ。 3日午後10時発表のタイ選挙委員会の非公式集計で、下院(定数500)選の獲得議席数はプアタイ264、アピシット首相(46)率いる民主党160、アピシット政権の連立パートナーだったプームジャイタイ党34、チャートタイパタナー党19、チャートパタナープアペンディン党7、東部を中心とする地域政党のパランチョン党6、元ソープランドチェーン・オーナーが結党したラックタイランド党4――など。 プアタイは今年3、4月の政党支持率調査で民主党と互角かやや不利と報じられていた。しかし、タクシン元首相(61)が「私のクローン」と呼ぶ末妹のインラク氏(44)を比例代表名簿1位の首相候補とした戦略が奏功。庶民的ながらカリスマ性があるインラク氏が行く先々で熱狂を巻き起こした一方、名門出身のエリートであるアピシット首相は庶民の中にいると最後までぎこちなさが抜けず、両党の差は急速に開いていった。 インラク氏は大勢が判明した3日夜、記者会見を開き、緊張した面持ちで、支持者らに謝意を伝え、「プアタイが勝ったとは言いたくありません。国民の皆さんから、我々が国のために奉仕する機会を頂いたと思っています」と述べた。また、チャートタイパタナーに連立政権入りを打診したことを明らかにした。連立政権の枠組みはプアタイとチャートタイパタナーにチャートパタナープアペンディン、パランチョンなどを加え、300議席弱になると予想される。 アピシット首相は記者会見で敗北を認め、タイ初の女性首相となる見通しのインラク氏に祝意を伝えた。また、民主党の獲得議席数の最低ラインを2007年の前回下院選で獲得した165としていたことから、進退について「胸の中で決めてある」と述べ、党首辞任を匂わせた。 タクシン氏は3日夜、滞在先のドバイからタイのテレビ番組に国際電話で出演した。タクシン氏は2007年に汚職で実刑判決を受け、国外逃亡中。参政権も停止中だ。インタビュアーはタクシン氏から恩赦や帰国の見通し、連立政権の枠組みなどに関する話を引き出そうとしたが、タクシン氏は参政権停止中に政党運営に関わったとされることを避けるため、慎重な言い回しに終始した。ただ、タクシン氏はプアタイの政治集会に何度もビデオ電話で登場しており、こうした活動が原因でプアタイが裁判所に解党を命じられる可能性が出ている。 汚職でも民主主義がまし? 過去4回の下院選を振り返ると、2001年は地方・貧困層へのばらまき政策、社会保障政策を掲げたタクシン氏の新党が単独過半数に迫り第1党となり、第1次タクシン政権が発足した。2005年は1期目で成果を挙げたタクシン派が議席の75%を占め圧勝し、2期目へ。タクシン氏は特権階級との権力闘争に破れ、2006年の軍事クーデターで追放されたが、クーデター政権下で行われた2007年末の総選挙でタクシン派のパランプラチャーチョン党が480議席中233議席を占め第1党となり、政権に復帰した。しかし、特権階級の指示で軍がタクシン派政権と距離を置き、反タクシン派のデモ隊がほぼ無防備の首相府やバンコクの2空港を占拠。さらに、2008年末に憲法裁判所がパランプラチャーチョンを解党し、政権が崩壊した。混乱の中、民主党とタクシン派の一部が軍基地内で密談し、連立政権発足に合意、アピシット政権が誕生した。 2010年にはタクシン派のデモ隊がバンコク都心部を長期間占拠し、治安部隊との衝突で91人が死亡、1400人以上が負傷する非常事態となったが、アピシット政権はデモを武力鎮圧してこの危機を切り抜け、任期満了まで半年以上残した今年5月に下院を解散、総選挙に踏み切った。民主党は政党支持率調査をみて、連立パートナーの議席を足せばプアタイに勝てると踏んだようだが、今回の下院選では2007年の前回よりも議席を減らし、政権を失うことになった。 アピシット政権は発足の経緯からして、特権階級・軍の後押しを受けていることが明らかだった。2010年の衝突では、軍幹部の訴追につながることを懸念してか、デモ参加者の死亡状況に関する調査を事実上放棄し、タクシン派、反タクシン派の和解に取り組む意思がないと、国民にみなされた。また、タクシン派潰しの強引な司法判断や不敬罪による投獄が相次ぎ、不敬罪容疑で遮断されたウェブサイトは6万ページ近くに上る。経済政策は玄人筋の評価が高かったが、物価上昇を抑え込むことが出来ず、庶民の間に不満が広がった。 アピシット首相、コーン財務相らアピシット政権幹部の多くは留学経験が豊富な国を代表するエリートだ。一方のタクシン派は「汚職体質」「反王室」というレッテルをはられている。それでもタクシン派が選挙で勝利したのは、「汚職」でも民主主義を失うよりはまし、という民意が働いたといえそうだ。 【猫たち】 今日も、全員集合。
by payarn
| 2011-07-04 21:07
| 日記
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