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2010年 03月 23日
【「高天神」】
今年も、郷里、遠州の「高天神」の例大祭が近づいてきた。 「天神様」といえば、「東風(こち)吹かば~」の、あの「菅原道真」の代名詞みたいなものだが、「天神様」の祭りは、「菅原道真」の命日25日ということになっているようである。命日ばかりか、生まれた日も、当時の暦(旧暦)の25日だそうだ。「天満宮」の天神祭りのように、何日もお祭り行事が続く場合でも、祭りのクライマックスは25日ということのようである。 毎年のことだが、3月25日が近づいてくると、子供のころの懐かしい思い出が、次々と浮かんできて、子供のころの「高天神祭り」のとき以上にドキドキしてくる。 同級生たちの追憶(おもいで)など、思いつくままに、あれこれ書きとめておくことにした。 まず、「高天神山」の山のかたちのことから。 小生、小学校時代から、「絵」を描くのが上手な子供だということになっていた。「書道」であれば「席書会」というのがあって、参加した会場その場で書いたものを評価してもらう「コンクール」があるのだが、それと同じように、「絵画」にも、会場で描いた絵の上手下手を競うコンクールがあった。まあ、教師や大人の手を借りてはいないというアリバイ作りの意味もあるようだった。 近隣の小中学校から代表が出席して、会場になった学校の教室などで書くのが普通だった。 そんなコンクール、いつのころからか、毎回お声がかかるようになった。 優秀な作品と認められると、賞状や副賞の賞品がもらえるのだが、金賞だったり、銀賞だったり、大抵は表彰状とともに「絵の具」などをゲットできたものだった。 記念アルバムをはじめとして、日記や通信簿など、幼いころの思い出の品は、全くといっていいほど手元には残っていないのだが、どういうわけか、小中高、それに大学の「卒業証書」と小中学校時代の賞状などの一部は手元にある。下の写真は、そのうちの、小学校5年生のときに副賞の絵の具などとともに頂戴した賞状である。賞状の紙の質がお粗末で、気をつけて扱わないとボロボロと崩れてしまう。昭和26年というと、もう58年あまりむかしに頂戴したものである。長い時間の間に、紙が、酸化してしまったのかもしれない。 毎回のように表彰され、副賞などもあれこれと頂戴したとはいうものの、自分自身で納得でき、自慢できるような作品が描けたと思ったことは一度もなく、大人たちというのは、見る目がないものだと、妙な気持になったものである。 同じクラスではなかったが、同級生に、石川晴美君という、ちょっとばかりトッポイ子供がいた。彼も絵画コンクールに一緒することが多かったが、大抵、小生の方が「優秀」ということになっていた。だが、幼な心にも、彼の絵の素晴らしさにヤキモチを焼いたほどで、彼には「絵描き」の才能があったと思っているが、彼は、稼業の百姓を継いで「絵描き」にはならなかった。 とにかく、彼の絵は、風景画にしても、室内で描く静物画にしても、大判の画用紙の中だけでは足りなく、いつも、画用紙の外側にまで、絵が描かれているような、実に大らかなスケールの大きい絵だった。じっと見ていると、彼が描いた絵は、画用紙の外にまで、広がって行くような絵だった。半世紀近くが経過した今になっても、写真のトリミングなどをするときには、彼の「絵心」を参考にさせてもらっている。 それにひきかえ、小生の描いた絵というのは、彼の真似をしようとしても、いつも画用紙に余白が出来てしまうような、ちまちました絵にしかならなかった。 当時、子供のこととはいえ、教師をはじめ、大人たちには、彼の絵の素晴らしさがわからないのか不思議でしかたがなかった。 幼かったころの「絵」のことが気になっていたのだろうか、後年、同窓会で彼に出会ったとき、「絵、描いてるか?」と、いまでも、趣味程度では、「絵」を描被続けているのではないだろうかと思われていた。 小中学時代は、副賞として絵の具などもらえるというだけで、いやいやながらも描き続けていたが、高校に入ったころからは、「絵画」からはすっかり足をあらってしまい、以後、今日に至るまで、戯れ事ではともかくとして、絵筆をとったことはない。子供時代から、「絵」を書くことは、苦痛で、好きではなかったし、ブザマな作品を人目に露らして恥を描きたくはなかった。 そんな子供のころの「お絵かき」の話なのだが、中学1年生時代だったか、2年生になってからのことだったが、記憶もなくなってしまったのだが、どこからか、偉い「絵描きさん」がやってきて、われわれ選抜された「絵描き候補」を指導してくれることになった。美術担当教師の知り合いだったのかもしれないが、その先生の名前は覚えていない。 「水墨画風」に、画仙紙に墨で下絵を描いて、水彩絵の具で色付けをする和洋折衷のような絵を描くひとだった。タレントの片岡鶴太郎のような画風の絵と言えばわかりやすいかもしれない。 その先生と一緒に、校内から学校近くの野山に出て風景画を描くことになったのだが、選んだ風景というのが、実は、「高天神山」だった。(随分回りくどかったが、やっと、「高天神」に到着した。) それが、この山である。 この山を前にして、洋行帰りの件の先生は、「セザンヌ」の「サント・ヴィクトワール山」を思い出したようで、この山を痛くお気に入りの様子だった。 その、「セザンヌ」の絵というのが、下の絵で、その下が、実物の「サント・ヴィクトワール山」の写真である。 こうして並べて比較すると、ちっとも似てはいないのだが、「セザンヌ」の絵を介して、記憶に残っているイメージが、似た形の山だと思い込ませたのかもしれない。 そんなことがあって、このとき始めて、フランスの印象派の巨匠「セザンヌ」を知り、画集を通してだが、彼の絵のいくつかに接することが出来た。 さらに、「高天神山」を、思い浮かべるたびに、「サント・ヴィクトワール山」をも、思い出すことになった。 中学校は、隣村の土方村との組合立で出来た学校だったが、我々が入学したときには、村も合併して、村立中学校になったばかりだった。 中学校に入ると、クラスの半分以上が、隣村の小学校からの新しい顔ぶれだった。 今でも、忘れられない新入時の同じクラスに、「アッキーちゃ」と、「カッちゃー」がいた。春田明夫君と溝口捷男(かつお)君である。ともに、恵まれた家で育ち、成績もよく、どうして自分は土方村に生まなかったのかと羨ましく思ったほどである。夏休みかなんかだったと思うが、彼らの家を訪ねたことがあった。翌年の3月の「高天神祭り」にも、誘われて出かけて行ったような記憶があるが、もしかすると記憶違いかもしれない。 下の案内図は、掛川市の観光案内ページからの借り物だが、我々は、家に近いということもあって、上方の、「三日月井戸」の脇を登るの急な坂道ばかりしか利用したことはなかった。(「高天神」をはじめ、我が村のあたり一帯は、平成の大合併により、すべて掛川市ということになってしまった。) はじめて「高天神祭り」に行ったのは、これまた、記憶にまちがいがなければのことだが、今からだともう60年あまり昔のことになるが、小学校に入ったばかりのころ、そのころ小学校の上級生だった悦次さん(父の弟)と一緒に、当時まだ健在だった祖母つまり悦次さんの母親・スギばあさんに連れられてのことだったと思う。そのときも、北側の「搦手門」の近くの「三日月井戸」の坂を登ったにちがいない。つづら折りの急坂だが、頂上の神社への最短距離である。 隣村のはずれにある我が家から、4~5kmは、離れていて、徒歩での参詣は遠かった。その後も、小学校高学年になって、1、2回、中学校になって以降も、1、2回は出かけて行ったが、大抵は自転車だったと思う。 頂上にある神社の小さな社殿では、古式にのっとった服装をして、昔風の化粧を施された「巫女さん(?)」が、舞を舞っていた。気をつけ、前へ習えの姿勢から、両手で万歳の格好をし、挙げた両手をだらりとおろす動作を、笛や太鼓に合せてくりかえしくりかえし昔風の神楽踊りだった。大昔の踊りというのは、こんなにものんびりしていて、伴奏といえば、ピーヒャラ、ドン、ジャラン~、ピーヒャラ、ドン、ジャラン~と、実に単調な音楽だったのが印象に残っている。 中学2年生になると、まなしのころから、「絵」の上手なミホコさんという同級生の女の子を意識するようになった。三つ編みにしている真っ黒な髪、つぶらな瞳、服装も垢抜けていた。3年生になると、クラス替えで同じクラスになり、息苦しい日が、毎日続いたのが、忘れられない。彼女が病欠した日の授業など、全くの上の空だった。異性を意識したのは、何も彼女がはじめてではなかったのだが、片思いながらも、ほんものの初恋だったような気がする。 その後、普通科の高校に進学し、大学にも進めたのは、彼女の存在が大きく影響したことはまちがいない。いつかは、認めてもらおうとの一心で受験勉強に励んだ。そんな彼女だったが、初恋の夢は、正夢にはならなく、甘酸っぱい追憶だけが残っている。 この、片思いの君のお父さん、増田實さんという。お祖父さんと思われる増田又右衛門さんとの合作で『高天神城戦史』を編纂され、のちには、『高天神城興亡史』を物された郷土史研究者である。 小生が、なんとかかんとか卒業した大学の大先輩だったということを知ったのは、いつごろのことだったかは記憶にないが、高天神史研究に熱心な高校教師だったようである。 「高天神」のことは、記事末に列挙したページなど参考にしてももらうとしても、ごくかいつまんで書いておくと、「高天神城」というのは、戦国時代、15世紀はじめのころに、「今川氏」が築いた山城が始まりのようで、その後、「高天神を制するものは、遠州を制する」などと云われ、徳川、武田、徳川と城主は、二転三転し、最後に兵糧攻めの末落城させた家康が火を放って、以来廃城になってしまったらしい。 このとき、お城のお姫さまが、深井戸に身投げした哀れな話など、「悲劇」は、今でも語り草になっている。 「高天神城」付近は、戦国時代から、徳川時代のはじめにかけて、侍たちが大勢集まった場所で、現在に至るまで、帰農した侍たちの子孫が多く、遠州の片田舎としては、一大文化センター的な様相を呈している。あたりは知識人の多い村で、教員を職業にしている兼業農家が多かった。 後に村の名にもなった土方(ひじかた)や鷲山(わしやま)、県(あがた)、黒田、青野、明石、春田、溝口、森下、松下などなど、由緒ある苗字の家が多い。 土方姓には、明治維新後上京して爵位を与えられたものもいる。土方村出身の東京女子医大の創設者、「吉岡弥生」の旧姓は、鷲山である。学芸大の鷲山学長は、中学の2学年後輩に当たるのだが、やはり、この鷲山一統の出である。 愛しの君、ミホコさんの旧姓の増田なども江戸時代か明治になって、近江から越してきた旧家のようだが、こと土方村にあっては、新参者ということのようである。 「高天神」とは、少しはなれてはいるが、我が村にも、渥美や安藤、中島など古いお家柄と思われる家系もあるが、土方村には、「鈴木」などという「犬のクソ」といわれるような苗字の家は、ほとんどないようである。 実は、「高天神」のことで、どうしても書いておかなければならない人が、もうひとりいる。こちらも、珍しい苗字の「角皆(つのがい)静男」さん。 高校時代の2学年先輩で、生物部の重鎮だった人である。 現職は、北海道大学名誉教授で、海底資源などを研究している海洋学の第一人者である。 いわゆる、頭のいい人というのには、大勢お会いしたことがあるが、この人の頭のよさには圧倒され、苦手な人の一人だった。他人の胸のうちまで見通すような、眼光の鋭さはX線にも匹敵するほどで、直視するのがはばかられるタイプの人だった。「いい加減で、適当」なのが大好きな「アバウト人間」にとっては、一緒にいるだけで、イキが詰まりそうなこともあった。 高校時代、「羊歯(しだ)のツノガイ」といわれたほどで、郷里の「小笠山」の羊歯植物はおろか、「伊豆半島」、はては「屋久島」まで「羊歯狩り」に出かけたほどで、高校生ながらすでに「羊歯博士」の域に達していたほどである。小笠山で「リュウビンタイ」を見つけたのも、彼ではなかっただろうか。 そんな彼が、現役で、東京教育大(元の東京高等師範、後の筑波大)に入学したときには、恩師や先輩たちの何人かと同じように、「生物」を教える高校教師になるのだろうと思っていたが、予想は大はずれで、化学専攻で修士、博士と進んで、後に北海道大学の水産学科に生き場所を見つけ、助教授、教授となり、定年で退官したあとは名誉教授ということになった。 この「角皆」さんのホームページで知ったことだが、この人の祖先というのも、どうやら「高天神」と関係がありそうなのである。 「角皆(替)姓」などに興味のある方は、彼が公開しているWEBページ(参考資料5)をご覧いただきたい。 実は、おまけの話なのだが、「角皆」さんの父方の祖母という人が、我が郷里の「大字岩滑」の「鈴木」という姓の家から出られた方だそうで、もしかすると、我が鈴木家ともどこかでつながりのある方かもしれないのである。角皆さんの母親のご両親は、ともに侍階級のご出身らしいのだが、角皆さん自身ということになると、侍の血ばかりか、「犬のクソ」の血も混じっているのかもしれないと思うと、なんとなく、ほっとしたりしている。 今度お会いすることがあったとしても、昔のように、カチカチに固まってしまうことはなさそうな気がしている。 「高天神祭り」の思い出とともに、「芋づる式」に、記憶が蘇ってくる幼馴なじみの数は、両手の指では数え切れない。 「マチャくん」、「ヘイちゃー」、「イサオくん」、「ヒロちゃ」、「サブローくん」、「タちゃあ」、「トシエさん」、「レイコさん」、「青木恵子さん」、・・・・・、きりがないからやめにするが、いつの日か、みんなの名前をあげて、思い出のひとことを添えて書き残しておきたいと思うが・・・。 【参考】 1 『高天神社(Wikipedia)』 2 『菅原道真(Wikipedia)』 3 『天神祭(Wikipedia)』 4 『そこに城があるから : 高天神城』 5 『小笠山(我が祖先)』 (角皆静男) など 6 『高天神城跡』 など (掛川市役所 商工労働観光課) 7 『高天神城戦史』(増田又右衛門、實共編) 手に入れば読んでみたい資料 8 『高天神城興亡史』(増田實著) 同じく、手に入れば読んでみたい資料
by payarn
| 2010-03-23 23:00
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