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ランナー・タイこんなところに住んでます どこ、どんなとこ? わたしの家族 我が家のカレンダー 【 最近の追加・更新 】 写真集 『 ブナの森 』 (7/19) 検索
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2009年 03月 31日
今朝の外気温は19.6℃。測候所の最低気温は、20.0℃。
これが、わが村の「ノンギェン寺(วัดหนองแย่ง)」の住職「ヤート師」です。 いってみれば、今回の「落慶法要」の主役のはずですが、大抵ののお寺の行事には「施主(เจ้าภาพ)」がいて、寺の主であるはずの住職(เจ้าอาวาส)は脇役か、あるいは影の主役に過ぎません。 今回も、表立っては住職の出番はなく、100人近い坊さんの中に紛れ込んでしまい、探すのも苦労するほどでした。 隣り村出身の「ヤート師」がこの寺の住職になって、そろそろ30年になるはずで、小生がこの村の住人になったときには、すでに住職を務めておりました。両親は、この界隈の村人と同じ、「ランプーン県・パサーン郡」からの移住者です。 ついでに、この寺の始まりですが、「ランプーン県」から移住してきた住民の2世たちが中心になって作った寺です。仏暦2465年(西暦1922年)の創建で、国から正式に「寺域(シマ)」を認可されたのが、仏暦2632年(西暦1989年)、小生がこの村に越してきてからのことです。 「ヤート師」とのお付合いは、山のお寺の「トゥ・サック」とのお付合いがしんみつになったこともあって、今でこそ、他人行儀なお付合いになってしまいましたが、いろんなことがありました。 金がないからと、無心され、我が家の家計からすると、身の程知らずといわれそうな「布施」をしたこともありました。また、泥棒よけに「金庫」を買ったのだが、英文のマニュアルしかなくて、使えないからとSOSが来たこともありました。我が家のパソコンの中には、この金庫の鍵の暗証番号が備忘のために、今でも残してあります。 今日は、「本堂落慶法要」のクライマックス、「結界石」の埋設儀式の日です。 朝から、老若男女のが集まっていましたが、「余興」のような「ダシもの」は全くありません。 11時回ったころから、坊さんたちの食事が始まり、そのうち、信者たちにも「仕だし」ものの「弁当」が配られ始め、いったん家に帰ることにしました。 1時近くなって、姪から連絡が入り、そろそろ始まるようで、門を閉められてしまうから、早めに来た方がいいよというので、出かけることにしました。今回も、また、自転車です。 まず、パレードのスタート地点の小学校の校庭へ。 校長、教頭など教師が先頭になって、出発するところでした。 先頭は、「バーン・ドゥー」の学校から出張してきてもらった30人ほどのブラスバンド。そのあとを、真っ白い「軍服風」の役人の制服を身につけた教師隊、先頭は、額に入れた国王のご尊影を持った校長先生、教頭や年配の女先生たちも、国王のご尊影とともに飾る飾り物、を持って行進。教師たちのあとを、カーキ色の「軍服」姿の「オー・ポー・ポー・ロー(ボランティア自警団)」、次が、白装束のお年寄り、さらに、今回の本堂新築のスポンサー一族、最後列に、華やかな民族衣装に、絵日傘の婦人会のきれいどころ。全部合わせても、2~300人のミニ・パレードでした。行進する距離もせいぜい300m。ただ、教師と自警団だけは、境内に入ってからも、本堂の周りを3周していました。 真ん中の色黒の男が、町長(カムナン)です。嘱託や臨時職員ではない正規の公務員や教員の「夏服」は、このように白です。しかも、白の軍隊帽も着用します。左の男は、町長の補助職員ですが、白の制服はなく、年中カーキ色の制服で、帽子も「戦闘帽」です。 「馬子にも衣装」とはよくいったもので、「昼行灯」のブンタム町長でも、えらそうな人物に見えてきます。 本堂を回る行進が終わると、司会役の指示で、県からの役人が、プミポン国王に感謝する儀式が始まります。 タイの国土の最終的所有者は、国王であるという意識は、今でも変わらないようで、寺の本堂の敷地(シマ)は、国王から認可というよりかは、御下賜いただいたという意識が残っているようです。当然、この儀式の中では、『国王讃歌』が演奏されます。歌詞まで覚えていて歌える人が多いのは、ちょっと意外でした。 いよいよ、「ファン・ルーク・ニミット(結界石埋設)の儀式が始まります。 厳粛な儀式だからということでしょうが、寺の正門も裏門も閉鎖され、「結界石」の埋設場所を含めて、本堂の周りに張り巡らしてある、竹垣のまわりには、30人ほどの「自警団」が配備されました。 やがて、100人近い坊さんが、9ヶ所の「結界石」、ひとつひとつに、お経を上げて回ります。「結界石」ごとに、主役になって経を上げる坊さんが、二人づつ決められています。 それが済むと、一番えらそうな坊さんからの指示で、「結界石」ごとに決められた「チャオ・パープ(施主)」の名前が、司会者によって読み上げられ、読み上げられた人たちやその一族は、ドサドサと竹垣の中の、それぞれの「結界石」のまわりに駆け込んで待機します。 「結界石」ごとに、2~3人の人が、昨日紹介した「厄除けの刀」を携えております。実は、この刀、単なる「厄除け」ではなく、「神刀」としての実用品だったのです。鉈(なた)程度には切れるようでした。 やがて、ドラを合図に、「結界石」を穴の上のやぐらからぶら下げている「ラタン(籐)」が、次々と切られ、やがて、ドサッという音とともに、穴の底に落ちていきました。 穴の中をのぞいて見ると、お賽銭やミニ・結界石なども入っているようでした。 これで、「結界石の埋設儀式」は滞りなく終わったことになりますが、前述したえらそうな坊さんの、掛け声で、施主たちばかりではなく大勢の信者が、我先にと、竹垣の中へなだれ込んで、「結界石」をぶら下げていた「籐の篭」の切れはしや聖糸を、奪い合いはじめました。家に持って帰って、ご利益のある「縁起物」として仏壇に飾るらしいのです。 あとは、もう、後片付けが残るだけです。 なんとなく、もの悲しい『祭りの後』がやってくるだけです。 いまでも、気になっていることは、この「結界石」の言われですが、なぜこのような球形のものが使われ、2m近くもある深い地中に埋められるのかも知りたいところです。 完全に近い球形の物体というのは、自然界では滅多に見ることがない「神秘的な」存在だと思いますが、深いところに埋めるというのは、「洪水対策」なんでしょうか。 余談になりますが、今回の祭りに参加した人たちの中で、バンコクなど都会からの帰省組もかなりの数いたようでした。 総じて彼らは、お金持ちで、服装など外見からも一見しただけで、それとわかる人が多いようです。 実は、上の写真で、刀を使って「籐」を切ろうとしている女性ですが、ひときわ目立つ美人でした。その女性から、この写真を撮ろうとしていると、「ワイ」をされました。南下、嬉しくなったのですが、この女性が誰なのか思い出せません。 帰宅して、この写真を、かみさんに見てもらったところ、なんとまあ、かみさんのいとこの娘・「ノイ」だったのです。隣村ではありますが、今回のお寺のすぐ近くに実家があるのですが、中学生になる頃からは、我が家にも遊びに来なくなり、その頃の面影もほとんどなく、思い出せませんでした。 チェンマイの専門学校を卒業した後、バンコクのデパートで会計係の仕事をしてると聞いてはいましたが、目の前にいる美人が「ノイ」だとは気づかず、恥ずかしい思いをするところでいた。彼女も、もう、そろそろ30に手が届く年令になったはずですが、未婚ということもあって、二十歳そこそこにしか見えませんでした。 彼女に限らず、バンコクからの帰省組は、どことなく「あか抜け」がしています。チェンライなどからすると、バンコクは、もう完全に先進の「異国」とさえ感じられるようになってしまいました。 ずっと以前にも、どこかで書いたかもしれませんが、「スラム」でさえも、チェンライの田舎住まいよりずっと豊かで快適な生活が出来るそうで、まじめに働いてさえいれば、チェンライ人から見ての「お大尽」になることなど、そう難しいことではないようです。
by payarn
| 2009-03-31 21:41
| 日記
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